1900年の創立以来、これまで「国際協力」、「社会貢献」、「人間尊重」を軸にグローバル人材の育成を展開してきた拓殖大学。インドネシア・タイ・中国をはじめとする30カ国以上の留学生が在籍しており、授業やゼミナール、サークル活動などで日本人学生と日々交流を深めています。中でも今回は、2022年で100周年を迎えたインドネシア研究会(前身は「南洋研究会」)に密着。歴史ある伝統行事「語劇祭」をピックアップしてご紹介しながら、拓殖大学のこれまでの歴史を紐解いていきます。
▼拓殖大学公式サイト
https://www.takushoku-u.ac.jp/
この記事の目次
国籍や学部を超えて
アクティブな学生が集まるインドネシア研究会
専攻に限らず、積極的に国際文化への理解や、文化交流を求める意欲的な学生達が多いというインドネシア研究会。活動は八王子国際キャンパス・文京キャンパス双方で行われており、全会員30名のうち、インドネシアの留学生が2人所属しています。
▼拓殖大学インドネシア研究会サイト
https://act.takushoku-u.ac.jp/lists/ritaku/culture/indonesia/
主な活動内容は、「語劇祭」を含む拓殖大学の三大祭、各参加団体の国際色の豊かな展示・屋台で世界旅行のような気分が楽しめる「国際フェスティバル」と、教室企画やステージイベントも行われる「紅陵祭」へ参加するための企画出しや準備。その他、会員みんなでインドネシア料理を楽しんだり、文化・意見交流などを行なっています。
インドネシアからの留学生・ムハマド サンスリ ラシッドさんは、そんなインドネシア研究会の一員。高校卒業後、進路を考えている際に日本へ留学経験のある父親から留学を勧められました。物理学に興味があったため、日本のテクノロジーが世界的に優れていたという点も理由の一つでした。
「留学当初は、日本語での日常会話が難しく、日本人の学生と話すのに勇気が必要でした」と話すラシッドさん。
日本語でのコミュニケーションのほか、宗教上、日本での食事で注意が必要だったり、お祈りの時間が授業と被ってしまったりと、日常生活で戸惑うことも多かったとのこと。
現在は、なるべく自炊をして工夫するほか、料理の種類が豊富なお店や、インドネシア料理屋などをチョイスしてサークルのメンバーと食事に出かけることもあるそうです。
インドネシア研究会へは1年生から所属しており、これまでにイベントへ向けての企画力やマネジメント能力を身につけるべく、屋台出店の際の経費や売り上げの管理を経験。今年度が最後の参加となる語劇祭では、語学のサポートはもちろん、4年生としてみんなが緊張せず楽しく活動できる雰囲気作りを意識しました。
ラシッドさんは現在4年生。卒業後は、日本のIT企業に就職する予定です。
「大学での経験は、卒業後も生かせる貴重なものばかりです。就職後は日本でインドネシアにかかわるプロジェクトなどに参加し、数年かけて経験とスキルを磨きたい。将来的には母国で自身の会社を設立するのが目標です。」と、明確に描いた将来のビジョンについて話してくれました。
語劇祭でも大注目のインドネシア研究会!
インドネシアの文化をミックスさせた「桃太郎」
「語劇祭」は、拓殖大学で100年以上続く伝統行事。今年度は、学内の様々な研究会、ゼミナール、外国語愛好会などが参加しました。原作制作や演者はもちろん、舞台演出や照明操作なども全て学生が担う本格的なイベント。インドネシア研究会では、主に3年生が原作制作を、演者は1、2年生がメインで参加します。インドネシア研究会のインドネシア語のほか、中国語や英語など、各参加団体それぞれが制作したストーリーを様々な言語を駆使して演じられます。
▼拓殖大学語劇祭
https://act.takushoku-u.ac.jp/entertainment/gogeki/
劇終了後、会員のみなさんにお話を伺うことができました。
インドネシア留学生と日本人学生が手を取り合い、長い期間を経て創り上げた「桃太郎」。まさにインドネシアと日本の合作ともいえる作品です。
1年の最後に行なわれる語劇祭。「新入生との親睦も深まり、チームワークも発揮できた。学生生活の集大成のよう」と4年生の滝井さんも話していました。
実はこの「語劇祭」、拓殖大学の前身となる「台湾協会学校」が創立されて間もない1902年(明治35年)5月に行なわれた「麗澤会第一回語学部大会」が始まりとされています。
当時は英語、北京語、台湾語の三ヵ国語で行なわれ、演説や喜劇などが数十番ほど演じられていました。翌年には、東京都千代田区神田美土代町の青年会館(現:東京YMCA)で2,000人を超える観客を集めて行われました。
「開拓者」育成のため生まれた拓殖大学
創立当初から世界を視野に展開
1895年(明治28年)の日清戦争後、日清講和条約に基づき、日本に割譲された台湾。新たに日本の領土となったその地の開発、経営に必要な資源の調査・研究などを行なう「台湾協会」という民間の組織が生まれました。
「台湾協会」を母体とし、その地で地域に根ざして活躍する人材の育成を行なうため創設された「台湾協会学校」は、「台湾協会専門学校」、「東洋協会専門学校」、「東洋協会殖民専門学校」と3度にわたり改名をしたのち、1918年(大正7年)に現在の「拓殖大学」へと改められました。
初代校長は台湾総督、陸軍大臣、内閣総理大臣などを歴任した桂 太郎。当時の授業は台湾語、英語など語学に特に重点を置いたカリキュラムでした。1903年(明治36年)7月には、第一回目の卒業式が現在の文京キャンパス内に立地する校舎の講堂で挙行され、第一期卒業生である45名の多くが、台湾など海外に赴任。
海外で活躍できる人材が必要とされ始めた時代に、その第一線で大きな一歩を踏み出していました。
拓殖大学はアジア各地に兄弟校が展開され、教授陣の充実とともに、学生数も年々増加。
卒業生たちも、台湾や朝鮮半島などに加え、中国、東南アジア、南洋諸島、イスラム圏などへ大きく活躍の範囲を拡大していきました。
1961年(昭和36年)には社団法人アジア協会(現:独立行政法人国際協力機構 JICA)の委託を受け、インドネシア共和国政府派遣賠償研修生に日本語を教育するため「拓殖大学日本語研修所」を茗荷谷校舎(現文京キャンパス)内に設置し、162名の日本語研修生を迎え入れました。これが拓殖大学の本格的な日本語教育のスタートです。1969年(昭和44年)には日本語教師養成講座を開講しました。
そして2020年(令和2年)には、これまでに多くの日本語教育の専門家を送り出してきた実績を生かし、外国語学部に「国際日本語学科」を設置。日本人と留学生がともに机を並べ、「日本語能力」を養い、「日本文化への理解」を深め、国際社会で「日本の良さ」について発信できる人材の育成を行なっています。
ますます世界へ「開拓」を進める拓殖大学
ITの進化で、世界との関わり方も大きく変わりつつある現代。異なる文化や民族の多様性はもちろん、一人ひとりの価値観を尊重し受け入れる時代へと変化しています。
拓殖大学は15の言語から選択できる言語教育や、毎年1,000名以上の留学生が在籍するグローバルな環境、年間300名の学生が参加する様々な留学プログラムなど、海外で通用する語学力や知識というだけでなく、積極性や国際的な視野など、社会に貢献できる人間力の育成に力を注いできました。
インドネシア共和国政府派遣賠償研修生の受け入れから始まったインドネシアとの交流は、学術交流協定を締結したダルマプルサダ大学との日本語弁論大会の開催や国際学部主催短期研修の派遣、交換留学の実施など、現在も形を変えて引き継がれています。
日本とインドネシア、2つの異なる国が密接に交流を続けてきた拓殖大学。キャンパスには、国境を超えて「国際性」、「専門性」、「人間性」という3つの能力を備えた「拓殖人材」へ歩みを進める学生たちで溢れています。
▼拓殖大学公式サイト
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▼拓殖大学インドネシア研究会サイト
https://act.takushoku-u.ac.jp/lists/ritaku/culture/indonesia/